2018.07.01

信玄餅と旅券

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 バッハ・コレギウム・ジャパンのモーツァルト「劇場支配人」と「バスティアンとバスティエンヌ」を観に行った。場所は調布のグリーンホール。「調布国際音楽祭」の一部として上演されたものだ。
 前者はオペラではなく、音楽付き喜劇。音楽は少なくて5曲しかなく、劇の方がメイン。半端な作品だが、「フィガロの結婚」の前に作曲されただけあって、曲が面白くできている。一方で後者はオペラなのだが、内容は退屈。天才少年モーツァルトが12歳のときに作曲したということで珍しい作品。
 演奏会形式ということだったが、一応演劇にもなっていた。歌詞はドイツ語、地の台詞は日本語で演じられた。台詞は日本風というか、会場向けにアレンジされており、オペレッタを思わせるくすぐりも挿入されていて笑った。特に「劇場支配人」は大幅に変更されていた。今更オリジナル通りにやってもつまらないので、上演するのだったらこれが正しいやり方なのだろう。

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2018.06.29

へちまとトリレンマ

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 動物園にて、『紙の動物園』を読む楽しみよ。



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2018.06.09

最寄りとメタン

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 METライブビューイングの2017-2018シーズンが終わった。結局今期は、「ノルマ」、「トスカ」、「愛の妙薬」、「ラ・ボエーム」、「セミラーミデ」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ルイザ・ミラー」、「サンドリヨン」と、10演目中8つも観てしまった。映画館でオペラを観るなんてと、最初は疑問に感じていたものだが、なかなかどうして手頃にオペラを楽しめる利便性はばかにできない。
 CDからDVDやブルーレイへとメディアが変わるにつれて、オペラの鑑賞の仕方にも変化が生じた。昔は音楽を聴きながら歌詞対訳を読むことを繰り返して理解を深めていく方法が普通だったが、今は映像を数回(極端には1回だけ)観るだけでおしまい、ということになっている(はずだ)。DVDやブルーレイはCDほど繰り返し鑑賞はしないだろうからだ。映像が見られるようになって便利になった一方で、鑑賞の密度とか深みのようなものが、希薄になってしまったように思われる。
 私はそれが嫌で、旧来からの鑑賞法を変えずにきたのだが、METライブビューイングを観るようになったということは、世間の流れに屈して新しい鑑賞法を受け入れたということである。なぜ受け入れる気になったかというと、新しい鑑賞法には確かに問題点はあるが、良い面もあるからだ。良い面というのは、鑑賞可能な演目が増えるということだ。旧来の鑑賞法では音源とは別に歌詞対訳も必要だったが、対訳の入手できる演目は限られる。しかし、対訳がなくても、日本語字幕つきの映像がある演目というのが存在するのだ。今回の「サンドリヨン」がそれだ。対訳を持っていないどころか、Naxos Music Libraryで探しても全曲盤の音源すら出てこなかった。つまり、旧来の方法では鑑賞をあきらめざるを得ない演目だったが、新しい鑑賞法を受け入れればMETライブビューイングで観ることができるのだ。もちろん、鑑賞の密度は低くなるが、全然鑑賞できないよりはましだ。旧来の鑑賞法と新しい鑑賞法を組み合わせることによって、より多様なオペラの楽しみ方ができるようになったということだ。

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2018.05.31

雰囲気と勘

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 さて、「新書」は「新しい書物」のことではないし、「秘書」は「秘密の書物」のことではない。そんなことは常識なのだけれど、もしそのような意味に勘違いをする人がいたとしても、その人を責められるだろうか。我々は知らない熟語に遭遇したとき、組み合わされた漢字の意味からその意味を類推する。これこそが熟語の優れた特徴である。そして、素直にこの方法を適用する限り、上記のような解釈が出てくるのはごく自然なことだ。その点において、このような勘違いをした人間に罪はない。悪いのは、漢字の組み合わせからその意味が類推できないような熟語を考案した者のネーミングセンスの方なのである。文化的慣性の障壁さえなければ、このようなセンスの悪い熟語はさっさと廃止すべきなのである。

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2017.08.29

歩行者天国と適応放散

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 イギリス・オペラというのはあまりクローズアップされないが、ギルバート&サリヴァンのオペレッタは英語圏で人気がある。その中でも日本で一番知られているのは「ミカド」である。ティティプという日本の架空の町を舞台としていて、登場する日本人の名前はおかしなものばかりで、死刑制度を風刺していて、貴種流離譚で、デウス・エクス・マキナ要素もあるという滅茶苦茶な怪作である。
 そんな「ミカド」を、20日に秩父、26日に新国立劇場でそれぞれ観た。20日のものは、ちちぶオペラ実行委員会というアマチュア団体と秩父市が主催しているもの。26日のものは新国立劇場の地域招聘オペラ公演で、びわこホールによるものである。それぞれ関係はなく、偶然この時期に同じ演目が重なったようだ。珍しいことである。
 ちちぶオペラ版「ミカド」は、2001年以降数回上演されてきている。何でも永六輔らの「ティティプ=秩父」説に着想を得て始まったもののようで、秩父を舞台とした話になっている。アマチュアによるもので、オーケストラもすべての楽器を集められずにシンセサイザーを採用していた。いきなり秩父囃子からスタートするのに始まる秩父ごり押しには少々気になったが、それも必然性のないものでもなく、むしろローカルなネタで笑いを取れているのがよかった。何よりもサービス精神旺盛で、ココ、プーバー、ピシュタシュによる3重唱を4度もアンコールを(半ば強引に)やったのには笑った。客層はオペラ・ファン(「ブラーヴァ!」って叫ぶ人)もいたが、普段はオペラを観ることもない人(映画と同じ感覚でまだ終わっていないのにさっさと帰る人)も大勢いたようだ。雰囲気がいつもと違って、客席と舞台が一体となって楽しんでいる感じが大変心地よかった。2008年に観たマリインスキー劇場来日公演の『ランスへの旅』を思い出した。笑っている子供もいて、あの子にとってはとてもよいオペラ体験になったのではなかろうか。
 その後に観たびわこホール版「ミカド」は、単品で観ればそこそこ楽しめるものだと思うが、どうしてもちちぶオペラの方と比較してしまうのが不幸だった。クオリティとしてはこちらの方が上なのだろうが、どうしても堅苦しく見える。一曲のアンコールもない。オペラだったらこれが普通なのだけど、オペレッタなのだからもう少しはっちゃけてほしかった。それと、なまじ字幕が見えるので歌詞を間違えるとすぐ分かるのだが、結構ミスが多かった。せっかくのコミック・ソングなのに歌詞を間違えると台無しである。急遽キャスト変更があったようなので仕方のない部分もあるのだろうが。
 歌詞はどちらも日本語によるもので、ギルバートの原詞を「超訳」していた。オペレッタなので自由に訳せばよいと思うが、びわこホール版の方がよりオリジナルに近いようだった。いずれにしても、一度聴いただけだとすぐ忘れてしまうので、日本語の歌詞を公開してほしいものだ。

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2017.08.10

双曲線とテーブルクロス

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 ローダン・シリーズのリブート版、「ローダンNEO」がついに出版された。7月から来年2月まで毎月1冊ずつ、第1シーズン全8巻が刊行される。ローダン・シリーズ初期の頃の話を、古くなった設定を現代風にアレンジして語り直すものということで、大変期待している。
 オリジナルのローダン・シリーズは世界最長のSFシリーズであり、日本版は一昨年に第500巻を突破した。売れ筋のシリーズとしてハヤカワ文庫SFの売り上げをを支えている。
 しかし、最近心配なのは、新規の読者を獲得できていないきらいがあるということである。長く続くということはそれだけ人気があり面白い証拠なのだが、逆にその長大さが途中参加を躊躇させる要因となっている。この事態には危機感を覚えずにはいられない。売れている現在はまだ大丈夫でも、固定読者が高齢化していくに従ってジリ貧となり、いずれは刊行が中止されてしまうのは目に見えているからだ。これはハヤカワ文庫SF、ひいては日本のSF出版全体を左右する重大事だと考える。
 昔は新規読者を獲得する仕組みがあった。100巻や200巻、300巻が刊行された際にはお祭りムードがあった。新聞やテレビなどでも取り上げられて注目されたし、『ローダン・ハンドブック』等の記念出版物が刊行されたりした。この出版物は、途中参加者むけの便利な入門書としての機能もあった。だが、400巻と500巻の際には、マスコミの取り上げも少なく、ハンドブックはついに出版されずじまいだった。
 特に第500巻『テラナー』は大きなターニング・ポイントであり、新規読者を獲得するにはまさに千載一遇のチャンスであったのだが、ほぼ何のキャンペーンも行われなかった。これには実に歯がゆい思いをさせられた。
 そんな早川書房が今になって本気を出してきたのが、この「ローダンNEO」なのである。著名なイラストレーターを起用したり、S-Fマガジンで特集を組んだり、これまでとは意気込みが違う。これは私としても応援しないわけにはいかない。ビブリオバトル等で紹介しまくって、一人でも多くの読者を開拓したいと考えている。

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2017.06.17

放置自転車と取締役

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 東京都美術館の「バベルの塔」展に行ってきた。現存するブリューゲルの「バベルの塔」は2点あり、来ているのは後に描かれた方だ。絵の大きさは先に描かれたものよりも小さいが、バベルの塔自体はより大きくなり、完成に近づいている。計算すると高さは500メートルほどになるそうだ。建造があまりに長期間にわたるため、すでに完成前の塔内で生活が始まっていることも伺える。16世紀にこのような巨大構造物を想像できたのには感心する。完成型はどのようなものを考えていたのか、興味深い。
 このボイマンス美術館所蔵「バベルの塔」は以前も来日しており、今回は24年ぶりの来日だそうだ。実は、私は前回も観に行っているのだ。今はなき池袋のセゾン美術館だったが、はっきり憶えている。24年というとほぼ四半世紀なのだから驚きである。当時はそんなに生きるなんて想像もしていなかった。

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2017.05.31

漁師と旅人

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 うどんはすきだが、うどんすきはすきではない。



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2017.05.13

無心と無実

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 夏目漱石『こころ』を読んでいたら、明治天皇の崩御が出てきた。
 明治天皇は死ぬまで天皇だった。大正、昭和も同様だ。それなのに、今上天皇は途中で降りようとしている。私には摂政で何が悪いのかまるでわからない(*)。天皇自身は「この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。」と述べたそうだが、だからどうしたというのか。別にそれで一向に構わないではないか。天皇が働かなくても代わりは摂政がやるのだから、何の支障もないはずだ。変な前例を作られるよりは、むしろそれを望む。
 天皇は生涯かけてやるものだ。伝統を軽んじてはいけない。

* 死んだら自粛ムードになり経済に悪影響が出るというのは理解できるが、引用部分については摂政を排除する論拠となっていない。

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2017.05.04

お金とウミウシ

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 時代区分というものは相対的な概念である。「現代」は私たちが生きているこの時代のことを指しているが、それは今だけの話だ。アメンホテプ4世にとっては、彼の生きた時代(私たちにとっては古代)こそが現代であった。これはアウストラロピテクスのルーシーにとっても同じことだ。同様に私たちが生きているこの時代も、いずれは中世となりやがて古代となる。普段はつい忘れがちだが、私たちの「現代」は、いつまでも現代ではなく、ときには原始時代にもなり得る。自時代中心主義的な発想には注意したいものだ。

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